大神神社について

三輪山の神語り 三輪山の神語り

1.おだまきの糸
三輪明神縁起絵巻 おだまきの糸 『古事記』に大物主大神おおものぬしのおおかみと活玉依姫(いくたまよりひめ)の恋物語が記されています。美しい乙女、活玉依姫いくたまよりひめのもとに夜になるとたいそう麗しい若者が訪ねてきて、二人はたちまちに恋に落ち、どれほども経たないうちに姫は身ごもります。 姫の両親は素性のわからない若者を不審に思い、若者が訪ねてきた時に赤土を床にまき、糸巻きの麻糸を針に通して若者の衣の裾に刺せと教えます。翌朝になると糸は鍵穴を出て、後に残っていた糸巻きは三勾(みわ)だけでした。さらに糸を辿ってゆくと三輪山にたどり着きました。これによって若者の正体が大物主大神おおものぬしのおおかみであり、お腹の中の子が神の子と知るのです。この時に糸巻きが三巻き(三勾)残っていたことから、この地を美和(三輪)と名付けたということです。 この物語は大神神社の初代の神主である意富多々泥古(おおたたねこ)の出自を述べるところで記されていますが、糸巻きのことを苧環(おだまき)とも呼び、糸をたよりに相手の正体を探るという説話は苧環おだまき型と言われて、類似した説話が全国各地に広がりをみせます。『古事記』のこの物語はその原型ともいえるでしょう。 オオタタネコをまつ大直禰子おおたたねこ神社の入口脇に、おだまき杉といわれる杉の古株が残っており、物語に登場する活玉依姫いくたまよりひめ苧環おだまきの糸がこの杉の下まで続いていたという伝説が残されています。
2.高橋活日(たかはしのいくひ)美酒を醸す
三輪明神縁起絵巻 酒ほがい 大物主大神おおものぬしのおおかみを厚く敬った崇神すじん天皇は神に捧げる御酒を造るために、高橋邑の活日(いくひ)を掌酒(さかひと)に任じました。活日いくひは酒造りの杜氏とうじの祖先にあたります。そして活日いくひは一夜にして美酒をかもしたと伝わります。崇神すじん天皇8年冬12月卯の日に大神への祭りが行われた後の酒宴で活日いくひは御酒を天皇に捧げて次の歌を詠みました。 「この神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久」 (この神酒はわたしが造った神酒ではありません。倭の国をお造りになった大物主大神が醸されたお酒です。幾世までも久しく栄えませ、栄えませ。) 崇神すじん天皇と群臣ぐんしんは夜もすがら酒を酌み交わし、祭りの宴を楽しみました。この故実によりご祭神は酒造りの神として敬われるようになったとされます。三輪の地は美酒を産み出す酒どころとして人々によく知られていたのでしょう。三輪の枕詞は味酒(うまさけ)で、額田王ぬかたのおおきみの歌をはじめ「味酒うまさけの三輪」は万葉集にも詠まれました。大物主大神おおものぬしのおおかみは酒の神、三輪といえば美味なる酒を古代の人々は想起したのでしょう。 そして、大神神社のご神木は杉で、古来神聖なものとされてきました。やがて時代が下がって、酒の神である大物主大神おおものぬしのおおかみ霊威れいいが宿る杉の枝を酒屋の看板とする風習が生まれ、軒先に酒ばやし(杉玉)を吊るすようになりました。
3.一休さんと杉玉
杉玉の掛け替え とんち話で有名な一休さん。その一休宗純禅師そうじゅんぜんじに次の歌が伝わっています。 「極楽を いづくのほどと 思ひしに 杉葉立てたる 又六が門」 (極楽をどこらあたりだろうかと思っていたが、杉の葉をしるしに立てた、酒屋の又六の門であった。) 大徳寺門前の又六という酒屋、その酒屋で酩酊すればそこが極楽というユーモラスな歌です。元禄時代、英一蝶(はなぶさいっちょう)の「一休和尚酔臥(すいが)図」という画には杉玉を吊した酒屋の店先で酔い伏している一休和尚が描かれています。この画も人口じんこう膾炙かいしゃした先の歌が下敷きになっているのでしょう。 この和歌や絵画にあるように酒屋の看板がわりとして杉葉を束ねて店先に吊るす風習が行われました。これは大神神社の大物主大神おおものぬしのおおかみが酒造りの神で、大神神社の神木である杉に霊威れいいが宿ると信じられたためです。現在も多くの酒造業者に大神神社から「しるしの杉玉」が授与されています。拝殿と祈祷殿に吊るされている大杉玉も一年に一度、11月14日の酒まつりの前日に青々としたものに取り替えられます。
4.なで兎と卯の日
なで兎 今から約270年前の元文5年、大神神社の大鳥居(現在の一の鳥居のこと)前に鉄の灯篭が奉納されました。この灯篭は一風変わっており、火を灯す火袋と呼ばれる部分の上には兎の置物が据えられていました。鳥居の前は伊勢へ向かう街道筋かいどうすじで、大神神社や長谷寺への参詣者さんけいしゃ、さらにはお伊勢詣りの人々で宿場町は賑わっていたので、この鉄灯篭は多くの人の目を引いたことでしょう。 それでは、なぜ兎の意匠いしょうだったのでしょう。実は大神神社の例祭である大神祭は崇神すじん天皇の8年卯の日に始まったとされ、それ以来卯の日を神縁の日として祭りが行われてきました。それゆえに大神祭は卯の日神事とも称されました。ご神縁深い干支である卯ゆえに兎の意匠であったと考えることができます。また、大物主大神おおものぬしのおおかみは出雲の大国主神おおくにぬしのかみと同一神で、大国主神おおくにぬしのかみ因幡いなば白兔しろうさぎを助けた神話は有名ですが、あるいはその神話も踏まえていたかもしれません。 時代が下がり、大鳥居の前で参詣者さんけいしゃを出迎えていた鉄灯篭も、第二次世界大戦の戦局の悪化にともない供出きょうしゅつを命じられてしまいます。ところが、幸いなことに火袋を守っていた兎の置物と火袋の下にあった亀の置物は青銅製であり、神社に保管されることとなりました。そして、いつのころからか旧参集殿の奥にあった兎の置物を撫でると身体の痛いところを癒してくれる、また願い事を叶えてくれると言われるようになりました。参拝の方々の信心がなで兎を知る人ぞ知る存在にしたと言えます。今では多くの参拝者に撫でられて、特に正月にはなで兔は祈祷殿前の臨時の建物に安置されて、多くの初詣の方々に撫でられてピカピカになっています。
5.大神穀主(タネヌシ)と三輪素麺
素麺 奈良時代、宝亀ほうき年間に大神神社の神主であった大神朝臣狭井久佐(おおみわのあそんさいくさ)の次男に穀主(たねぬし)という人がいました。穀主は常日頃から農事をもっぱらにして、穀物の栽培にこころをくだいていましたが、三輪の地に適した小麦の栽培を行い、小麦と三輪山の清流で素麺作りを始めたとされます。現在も三輪の銘産として手延べ素麺が有名ですが、大物主大神おおものぬしのおおかみとその子孫の大神穀主おおみわのたねぬしとの伝承から、素麺作りに携わる人々はご祭神を素麺作りの守護神として厚く敬ってきました。 江戸時代の中頃に刊行された『日本山海名物図絵』(1754)に三輪素麺は「大和三輪素麺、名物なり、細きこと糸の如く、白きこと雪の如し、ゆでてふとらず、余国よこくより出づるそうめんの及ぶ所にあらず、(中略)それ三輪は大己貴おおなむちのみことの神社あり、御神体は山にて鳥居ばかりにて社はなし。参詣の人多きゆえ、三輪の町繁昌なり。旅人をとむる旅籠はたごやも名物なりとてそうめんにてもてなすなり」と紹介されています。門前町の三輪は伊勢街道筋にあり、多くの旅人が往来しました。旅籠はたごでもてなされた三輪素麺の美味が口づてに広まっていったのでしょう。
6.蛇体の神と卵
卵がお供えされる神杉 崇神すじん天皇の御代に神意を伝える巫女として天皇のまつりごとを助けた倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)という方がおられました。この姫が大物主大神おおものぬしのおおかみの妻となられるのですが、大神は夜にしか姫のもとを訪れません。姫は貴方様の顔をはっきり見たいと大神に願い出られます。もっともな事と、姫の申し出を聞き届けた大神は、姫の櫛を入れた箱の中にいるが、箱を開けても決して驚いてはならぬと念を押しました。不審に思いながらも明朝に姫が箱を開けると、そこに小蛇が入っており、驚きのあまり姫は悲鳴を上げてしまいます。大神は蛇からたちまちに麗しい男性に姿を変え、約束を破ったことを責め、二度と姫とは会えぬと大空を翔けて三輪山に帰ってしまわれました。そして後悔した姫は箸で女陰を突いて命を落としてしまわれました。このことから百襲姫ももそひめ の墓は箸の御墓みはかと呼ばれました。三輪山の麓にある箸墓はしはかにまつわる、この悲しいお話が『日本書紀』に記されています。 大物主大神おおものぬしのおおかみが蛇に姿を変えたお話は、同じ『日本書紀』の雄略ゆうりゃく天皇のところにも出てきます。大物主大神おおものぬしのおおかみ顕現けんげんされる一つの形が蛇体であったということで、この物語は蛇神の信仰の古さを伝えています。大神神社で蛇は「さん」と親しみを込めて呼ばれており、福徳をもたらす霊威れいいとして崇められています。境内の各所に卵がお供えされていますが、これも巳さんの好物の卵をお供えしようという崇敬者の信仰の一つの表れです。
大和国一之宮 三輪明神 大神神社
〒633-8538 奈良県桜井市三輪1422
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